2005年12月09日

第3講「特分法廷」概論

前回、「陪審員制度」が「財力の違いの判決への影響」を大きくする傾向について論考した。今回のテーマである「特分法廷」は、その「財力による不平等」を解消するという建前で、導入された制度である。

元来、裁判は「裁判所」で行われるもので、第1審は「被告」の居住地で行われることが原則である。つまり、「訴える側が訴えられる側に出かけていく」ことが基本である。しかし、被告の居住地(所在地)が遠隔地である場合、とりわけ最近問題になるのは通販でモノを買った場合の賠償請求など、個人が遠隔地に居る法人を訴える形となり、「裁判に行く」だけでも大変な負担となり、逆にその負担を理由に訴えることを諦めるケースが出てくる。実際、名古屋在住の女性が北海道カニすきセットに入っていた固形燃料でちょっぴり火傷をした事について訴えた裁判では、数万円の慰謝料を受け取る判決を得たが、交通費がとんでもない額になり、名古屋地裁に破産申請したという事例もあるくらいである。また、エッチなウェブサイトの契約のトラブルなどでは、訴える相手が香港だのアムステルダムだのに居たりする。

さて、昨今のインターネット技術の普及により、この「遠隔地問題」の解消を図ったのが、「特別設置分離法廷に関する法律」通称「特分法」である。この法律に基づいて設置された法廷が「特分法廷」である。

この「特分法廷」は、ちゃんとすれば原告、被告ともに交通費や時間的な負担が軽減されるという大きなメリットがある。しかし、時の総理が例のごとく、ノリとパフォーマンスでろくに中身を検証せずに強権で導入したため、何かとというか余りにも問題が多い。

最大の問題は、それぞれの特分法廷を、それぞれの当事者達が自らの負担で設置しなくてはならない点である。もちろん全て税金で購うことにも問題があるが、これによって「財力による不平等」を解消するどころか、かえってとんでもない格差が生まれる結果となっている。例えば、原告が空調も無いような倉庫を特分法廷として設定し、被告が一流ホテルの宴会場で、という形が問題視される典型である。また大きな会社同士の係争ではそれぞれがそれぞれの優位性を誇示するため、彦根城と姫路城に特分法廷を設置した、という事例もあった。本来、特分法廷は各市町村の役場などに、しかるべき設備を備えて設置するなどの方策がとられるべきであったが、ハードの整備が全く置いていかれたまま施行されたため、「電源さえとれれば、そこが法廷」というストリートミュージシャンさながらの状態になってしまっている。

いよいよ次回の講義では、「陪審員制度」&「特分法廷」の組みあわせが、タラコ&ソーセージに匹敵する危険度であることを、検証・実証していく。
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2005年12月08日

第2講「陪審員制度論序論」

日本では陪審員制度が戦前には存在し、件数こそ少ないが実際に行われた記録も残っており、しかし程なくすたれてしまった。この経緯を根拠に、日本では長く「職業法曹人」のみによって法が司られる時代が続いたが、「法廷と一般社会との感覚の乖離」や「市民の司法参加の促進」と言った観点から、陪審員制度の導入(あるいは復活)が検討された。そして、法曹界からの猛烈激烈な反発に応ずる形で、陪審員よりも少し権限などがソフトになった「裁判員制度」が、重度の刑事事件に限って採用されることとなった。

だが、歴史的多数を背景とした政府与党は、この導入を間近に控えた「裁判員制度」をちゃぶ台ごとひっくり返し、刑事事件だけでなく世界的にも珍しい民事事件への適用も含めた「陪審員制度」の導入を強行した。

この背景には、「国民をテレビでアンポンタンにして政治への関心を低めた方が、何かと都合がよい」という戦後民主主義60年の原則が、「アンポンタンになった国民なら、政治に参加させた方がもっと都合がよい」というより発展的な方向へと崩れたという状況がある。アンポンタンな国民なら、三権どこにだって参加してほしい、だってどうとでも誘導するの楽なんだもん、という事である。実際、民事裁判における陪審員制度(通称、大陪審。刑事陪審3人に対して民事陪審6人であることからそう呼ばれる)が導入されてからは、裁判での過剰な演技・演出が目立ち、09年6月の札幌地裁では被告である劇団雨期が俳優やダンサー30人超にに衣装をつけさせて証人として召喚したため、ヴェニスの商人みたいな雰囲気だった、と報告されている。

ただし、財力に余裕のある裁判当事者による陪審員向けの「過剰演出」は、米国の刑事裁判ではかねてから存在していたものであり、日本の陪審員制度に特有というわけではない。裁判の演出にお金をかけることが一種の「投資」である民事裁判の場合、世界的にも導入事例が少ないためにお手本が無く、収拾が付かないケースが散見される。さらに、「特設分離法廷」裁判と組み合わさった時に、もう司法なのに無法地帯、という状態になる場合もあり、何でそんなことになってしまったかを中心に、次の講では「特分法廷」に関して論考する。
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第1講「劇場法廷論概論」

05年の総選挙の与党の歴史的大勝を経て、時の政権の断行した「構造改革」は、総選挙の前にも増して「なんちゃって改革」の色合いが強く、首相の「丸投げでちょっぴり口出し」スタイルもより洗練され、もう有言不実行、羊頭狗肉、朝令暮改、朝三暮四、五里霧中というとっちらかりでひっちゃかめっちゃかの世の中になってしまった。しかし、そんな中かなり実を伴って改革されたのがよりにもよって「司法改革」であり、首相の「改悪への強い意志」が色濃く反映された残念な結果となってしまった。

本講義では、その「司法改悪」の中身とその功罪(功は微々たるものだが)を明らかにすることを目的とする。第1講では、その概要をつかむことを目標とする。

「劇場法廷論」と、あえて表題として表記したことからもわかってもらえると思うが、新裁判制度の骨格は「劇場化」につきる。「市民の司法参加」を大義名分に、法律も何もわからない市民に、いかに自分に都合のいい「演出」で自分の都合のよい理屈を主張できるか。ということが、勝敗をもっとも左右する要素となってしまっている。「演出」には基本的に財力が必要であり、財力の差がそのまま判決に反映されやすい。無論、これまでの裁判制度でも財力の大きさは勝つ上での非常に高いアドバンテージであったことは間違いないが、この傾向は新制度によりケタ違いに強まっている。この状況を決定づけたのは「陪審員制度(民事:大陪審、刑事:小陪臣)」および「特別設置分離法廷制度」の2つの制度によるものである。

次の講義からは、この2制度について、成立の過程と現状、問題点などを、具体的に検証していく。
posted by 蓮田 at 02:14| Comment(2) | TrackBack(0) | 劇場法廷論概論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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