2007年10月22日

第5講「大陪審」とは何なのか?

諸君。我々は、試されているのである。

そもそも、「法」とは何か。それは、人が人を統べるための道具ではない。何か、人を超えた大きな意志が存在し、その意志は「生きとし生けるもの全てに幸いを」とどうやら考えているようで、「法」とはその意志を我々の言語に翻訳したものにすぎない、と私は考える。

確かに、時の権力や資本は、その「法」を思うがままに操る手だてを手に入れたのかもしれない。だが、法廷が劇場のように虚構に彩られ真実を曲げて行く場(注:劇場が良くない場所だと言う意味ではない。劇場は、現実から離れた夢のファンタジーのマジカルドリーミングエリアなのだ)として、これからも在り続けることはない。強き者達は、勘違いをしたのだ。民にとって、法廷は遠い無関係の場所だった。しかし、それは劇場のように、民にとって身近なリアルな場所になった。民はいつか気付くだろう。法廷で繰り広げられる「虚」の向こうの「真」を、見つめなければならないことに。時の権力や資本が手にした力は、ほんの短い間だけ通用する、小手先の手品のようなものだ。やがて彼らは悔やむことになる。「なぜ、わざわざ民を鍛える場を作ってしまったのか」。テレビやメディアを通じてなら、民を衆愚化することもできただろう。だが、法廷は生である。いかに3法廷を中継する特分法廷でも、目前に人生を賭けた人間が存在する事に変わりはない。生の迫力は、脳よりもっと奥深い、骨の随を感化するのだ。

法は強き者の味方ではない。そして無論、弱き者の味方でもない。法は強き者と弱きものに、常に等しく在るものだ。私たち司法にある者の根本的な務めは、立法がいかなる法や制度を立てようとも、あるいは世間がどんな様相を呈しようとも、凛として法の精神に遵じる魂を持ち続けることにある。法は刃である。心を鍛えた達人のみが、腰に帯びることを許される。依頼主のために、歌って踊れる弁護士がいても構わない。だが、踊らされてはいけないのだ。

最後は何だか抽象的な熱いトークになってしまったけれど、これは「概論」だから、枝葉の事より、こういうマインドを押さえておかなければいけないってことだよ。
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第4講「大陪審」と「特分法廷」

民事裁判における「大陪審」と「特分法廷」に共通するルールがある。それは「原告・被告双方が合意した時にのみ、採用される」というものである。では仮に、経済力の脆弱な個人と、大企業が争うことになった場合、その個人は、一般法廷での裁判を望むだろうか? まず、特分法廷を選ぶ可能性が高いことは、おそらく間違いない。単純に、被告の所在地に出かけるという金銭および時間的リスクを劇的に軽減できるからである。では、陪審員制度はどうであろうか? 特分法廷のみを採用し、陪審員制度を採用しなかった場合、大企業はその経済力でもって、優秀な弁護士を(多くの場合、複数)雇うことができる。個人であれば、弁護士を雇うこともできないかもしれない。では、弁護士の質、量に於いて劣勢であることが自明であるならば、その個人の当事者は何と考えるだろう。「一般人である陪審員の判断を仰いで、自分に有利な判決を勝ち取ろう」と考える場合が多いのではないだろうか。つまり、経済力の差を、陪審員制度の採用によって逆転しようとする可能性が高いのである。

そんな訳で、相対的に経済力の弱い当事者が「大陪審」と「特分法廷」を併せて希望し、強い当事者がそれを「受けて立つ」という構図が、成立するパターンが多くなっている。

そして、このところ散見されるケースとして、「特分法廷を船の上に設置する」というものがある。これは一見とんでも無いが、実はきちんと検証すると本当にとんでもない。特分法廷を船の上に設置する企業の言い分は次のようなものである。「増大する訴訟の機会に対応するため、常設の特分法廷を確保した方が合理的である」「なるべく、原告の居住地もしくはその近くに特分法廷が設置される方がよい(和解など、事後処理に都合がよい)が、船なら、その都度移動すればそれが達成できる」。そして、法的な根拠は「特分法廷は、著しく問題がない限りは、当事者の主観によって設定できる」というものであるが、船上の特分法廷は著しく問題である。それは「飲食」に関わる点である。一般のホテルなどに特分法廷を設置して、もし陪審員候補者に食事等の便宜を図れば、これは買収に当たる可能性が高い。なぜなら、陪審員候補者達には、様々な食事の摂取方法が存在するからだ。しかし、船で航海に出てしまえば、船上で提供されるもの以外は食べることができない。ここを突き、陪審員候補者と傍聴人に対して、閉廷後にものすっごく豪華な食事を振る舞う、というケースが散見されている。しかも、巧妙に船を出す業者、食事を出す業者などが別に設定されており、裁判の当事者企業が、直接そういう便宜を図る訳ではない、という体裁が整えてある。食事以外にも、長期航海の船では標準的に存在するサービスが、多くの場合、無償で乗客(つまり、陪審員候補者)に提供される。タレント弁護士によるディナーショーなども、あるらしい。

これはもう事実上の陪審員の買収なのだが、これを阻止できる法的な根拠が現状では存在しない。正に、突貫工事で作った完成度の低い法に存在する「穴」である。急ぎ立法サイドからこの穴を埋める動きが立ち上がってしかるべきだが、何だかダラダラ後回しにされてしまって、どうにもこうにもなりそうな気配はない。司法サイドとしては、現状で存在する法を司どるしかないわけで、バカバカしいとは思いつつも、クライアントが望めば、お船で歌って踊って闘うという「法廷戦術」も必要にはなってくる。それって、海賊みたいである。

しかし、ここまで「法廷」が変わってしまった現在、諸君ら法曹界を目指す若者達が、何を考えて法学を修めるべきか、次回第5講で、述べていきたいと思う。
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2005年12月09日

第3講「特分法廷」概論

前回、「陪審員制度」が「財力の違いの判決への影響」を大きくする傾向について論考した。今回のテーマである「特分法廷」は、その「財力による不平等」を解消するという建前で、導入された制度である。

元来、裁判は「裁判所」で行われるもので、第1審は「被告」の居住地で行われることが原則である。つまり、「訴える側が訴えられる側に出かけていく」ことが基本である。しかし、被告の居住地(所在地)が遠隔地である場合、とりわけ最近問題になるのは通販でモノを買った場合の賠償請求など、個人が遠隔地に居る法人を訴える形となり、「裁判に行く」だけでも大変な負担となり、逆にその負担を理由に訴えることを諦めるケースが出てくる。実際、名古屋在住の女性が北海道カニすきセットに入っていた固形燃料でちょっぴり火傷をした事について訴えた裁判では、数万円の慰謝料を受け取る判決を得たが、交通費がとんでもない額になり、名古屋地裁に破産申請したという事例もあるくらいである。また、エッチなウェブサイトの契約のトラブルなどでは、訴える相手が香港だのアムステルダムだのに居たりする。

さて、昨今のインターネット技術の普及により、この「遠隔地問題」の解消を図ったのが、「特別設置分離法廷に関する法律」通称「特分法」である。この法律に基づいて設置された法廷が「特分法廷」である。

この「特分法廷」は、ちゃんとすれば原告、被告ともに交通費や時間的な負担が軽減されるという大きなメリットがある。しかし、時の総理が例のごとく、ノリとパフォーマンスでろくに中身を検証せずに強権で導入したため、何かとというか余りにも問題が多い。

最大の問題は、それぞれの特分法廷を、それぞれの当事者達が自らの負担で設置しなくてはならない点である。もちろん全て税金で購うことにも問題があるが、これによって「財力による不平等」を解消するどころか、かえってとんでもない格差が生まれる結果となっている。例えば、原告が空調も無いような倉庫を特分法廷として設定し、被告が一流ホテルの宴会場で、という形が問題視される典型である。また大きな会社同士の係争ではそれぞれがそれぞれの優位性を誇示するため、彦根城と姫路城に特分法廷を設置した、という事例もあった。本来、特分法廷は各市町村の役場などに、しかるべき設備を備えて設置するなどの方策がとられるべきであったが、ハードの整備が全く置いていかれたまま施行されたため、「電源さえとれれば、そこが法廷」というストリートミュージシャンさながらの状態になってしまっている。

いよいよ次回の講義では、「陪審員制度」&「特分法廷」の組みあわせが、タラコ&ソーセージに匹敵する危険度であることを、検証・実証していく。
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2005年12月08日

第2講「陪審員制度論序論」

日本では陪審員制度が戦前には存在し、件数こそ少ないが実際に行われた記録も残っており、しかし程なくすたれてしまった。この経緯を根拠に、日本では長く「職業法曹人」のみによって法が司られる時代が続いたが、「法廷と一般社会との感覚の乖離」や「市民の司法参加の促進」と言った観点から、陪審員制度の導入(あるいは復活)が検討された。そして、法曹界からの猛烈激烈な反発に応ずる形で、陪審員よりも少し権限などがソフトになった「裁判員制度」が、重度の刑事事件に限って採用されることとなった。

だが、歴史的多数を背景とした政府与党は、この導入を間近に控えた「裁判員制度」をちゃぶ台ごとひっくり返し、刑事事件だけでなく世界的にも珍しい民事事件への適用も含めた「陪審員制度」の導入を強行した。

この背景には、「国民をテレビでアンポンタンにして政治への関心を低めた方が、何かと都合がよい」という戦後民主主義60年の原則が、「アンポンタンになった国民なら、政治に参加させた方がもっと都合がよい」というより発展的な方向へと崩れたという状況がある。アンポンタンな国民なら、三権どこにだって参加してほしい、だってどうとでも誘導するの楽なんだもん、という事である。実際、民事裁判における陪審員制度(通称、大陪審。刑事陪審3人に対して民事陪審6人であることからそう呼ばれる)が導入されてからは、裁判での過剰な演技・演出が目立ち、09年6月の札幌地裁では被告である劇団雨期が俳優やダンサー30人超にに衣装をつけさせて証人として召喚したため、ヴェニスの商人みたいな雰囲気だった、と報告されている。

ただし、財力に余裕のある裁判当事者による陪審員向けの「過剰演出」は、米国の刑事裁判ではかねてから存在していたものであり、日本の陪審員制度に特有というわけではない。裁判の演出にお金をかけることが一種の「投資」である民事裁判の場合、世界的にも導入事例が少ないためにお手本が無く、収拾が付かないケースが散見される。さらに、「特設分離法廷」裁判と組み合わさった時に、もう司法なのに無法地帯、という状態になる場合もあり、何でそんなことになってしまったかを中心に、次の講では「特分法廷」に関して論考する。
posted by 蓮田 at 23:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 劇場法廷論概論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

第1講「劇場法廷論概論」

05年の総選挙の与党の歴史的大勝を経て、時の政権の断行した「構造改革」は、総選挙の前にも増して「なんちゃって改革」の色合いが強く、首相の「丸投げでちょっぴり口出し」スタイルもより洗練され、もう有言不実行、羊頭狗肉、朝令暮改、朝三暮四、五里霧中というとっちらかりでひっちゃかめっちゃかの世の中になってしまった。しかし、そんな中かなり実を伴って改革されたのがよりにもよって「司法改革」であり、首相の「改悪への強い意志」が色濃く反映された残念な結果となってしまった。

本講義では、その「司法改悪」の中身とその功罪(功は微々たるものだが)を明らかにすることを目的とする。第1講では、その概要をつかむことを目標とする。

「劇場法廷論」と、あえて表題として表記したことからもわかってもらえると思うが、新裁判制度の骨格は「劇場化」につきる。「市民の司法参加」を大義名分に、法律も何もわからない市民に、いかに自分に都合のいい「演出」で自分の都合のよい理屈を主張できるか。ということが、勝敗をもっとも左右する要素となってしまっている。「演出」には基本的に財力が必要であり、財力の差がそのまま判決に反映されやすい。無論、これまでの裁判制度でも財力の大きさは勝つ上での非常に高いアドバンテージであったことは間違いないが、この傾向は新制度によりケタ違いに強まっている。この状況を決定づけたのは「陪審員制度(民事:大陪審、刑事:小陪臣)」および「特別設置分離法廷制度」の2つの制度によるものである。

次の講義からは、この2制度について、成立の過程と現状、問題点などを、具体的に検証していく。
posted by 蓮田 at 02:14| Comment(2) | TrackBack(0) | 劇場法廷論概論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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