そもそも、「法」とは何か。それは、人が人を統べるための道具ではない。何か、人を超えた大きな意志が存在し、その意志は「生きとし生けるもの全てに幸いを」とどうやら考えているようで、「法」とはその意志を我々の言語に翻訳したものにすぎない、と私は考える。
確かに、時の権力や資本は、その「法」を思うがままに操る手だてを手に入れたのかもしれない。だが、法廷が劇場のように虚構に彩られ真実を曲げて行く場(注:劇場が良くない場所だと言う意味ではない。劇場は、現実から離れた夢のファンタジーのマジカルドリーミングエリアなのだ)として、これからも在り続けることはない。強き者達は、勘違いをしたのだ。民にとって、法廷は遠い無関係の場所だった。しかし、それは劇場のように、民にとって身近なリアルな場所になった。民はいつか気付くだろう。法廷で繰り広げられる「虚」の向こうの「真」を、見つめなければならないことに。時の権力や資本が手にした力は、ほんの短い間だけ通用する、小手先の手品のようなものだ。やがて彼らは悔やむことになる。「なぜ、わざわざ民を鍛える場を作ってしまったのか」。テレビやメディアを通じてなら、民を衆愚化することもできただろう。だが、法廷は生である。いかに3法廷を中継する特分法廷でも、目前に人生を賭けた人間が存在する事に変わりはない。生の迫力は、脳よりもっと奥深い、骨の随を感化するのだ。
法は強き者の味方ではない。そして無論、弱き者の味方でもない。法は強き者と弱きものに、常に等しく在るものだ。私たち司法にある者の根本的な務めは、立法がいかなる法や制度を立てようとも、あるいは世間がどんな様相を呈しようとも、凛として法の精神に遵じる魂を持ち続けることにある。法は刃である。心を鍛えた達人のみが、腰に帯びることを許される。依頼主のために、歌って踊れる弁護士がいても構わない。だが、踊らされてはいけないのだ。
最後は何だか抽象的な熱いトークになってしまったけれど、これは「概論」だから、枝葉の事より、こういうマインドを押さえておかなければいけないってことだよ。